2012年4月30日月曜日

現代の演奏家に比べたら往年の演奏家の方が技術は劣る様な事を言う人は結構居ます...

現代の演奏家に比べたら往年の演奏家の方が技術は劣る様な事を言う人は結構居ますが、

往年の演奏家は歌い回し(節回し)や、その為の技術が目立ち過ぎて、


「現代の演奏家の方が技術が上」

と言われているのかな?……と思う様になりした。(全員が全員とは思わないですが)





そこで質問したい事があります。

クライスラー

ハイフェッツ

オイストラフ

ティボー

ミルシテイン

……等の往年の演奏家の方々達と、



ヴェンゲーロフ

ハーン

ムター

レーピン

サラチャン

……等の現代の演奏家の方々達。

どちらが上とかではなく、そんなに劣る技術を持っているのかと聞いてみたいのですが、皆さんはどう思われますか?





宜しく御願いします。







まず、「技術」ってなんですか??

指が早く廻ること、正確な音程、読譜力、ソルフェージュ力・・なんですか?

私は「技術があがった」ということの言いかた自体、良く分かりません。

世界的な平均技術(プロ、アマ、有名奏者、普通の音大生、すべて混ぜた平均値)は、確実に上がっていると思いますが、それが、世界的な名演奏家と何の関係があるでしょう。世界的に名を残す演奏家はそんな「技術」だけの話で済んでしまうような、レベルの音楽家ではないので、もともと、話自体がナンセンスだと思いますよ。昔の演奏家が、技術がないとか、音程がわるいとか、指がまわらない・・とかそんな程度しか、音楽を聴けない人は、もともと、音楽を聴く耳をもっていない、音楽を愛してる人ではなく、自分の耳の良さ、曲を知っている、ソルフェージュ力がある・・程度のことを見せびらかしたいだけの、エセクラシックファンでしょう。ただ、過去の巨匠の演奏が好きだ、嫌いだ・・というのは自由です。テクニックのキレがある現代の演奏が好き・・それは自由です。音楽になにを求めるのか人によって違うのは当然ですから・・。だからいって、演奏家の評価の基準が、「技術」というものだけなら、空しいものです。



質問者様は「ヴァイオリン」を例にとって、話をしていますが、過去の巨匠たちは「技術」が低いのでしょうか?私は技術が低いと感じたことは一度もないし、今のヴァイオリニストが技術が高い・・と思ったこともないです。なぜかといえば、音楽を聴くときに、私は「技術」を気にしないからです。いや、気にしないのではなく、技術が気になるような演奏では、どちらにしても、大した演奏じゃないと断言できます。上手いね!テクニックあるね・・というは、音楽のごくごく一面だけで、音楽の表現の中では、ごく一部分です。逆説になりますが、技術が重要なことは、昔から何の変わりもありません。当時から、シゲティ氏より、技術力があるヴァイオリニストは沢山いたでしょう。しかし、シゲティのような演奏ができる人は、いくらも居ないです。



音楽にとっての技術というのは、世界的な名声を得るほどの人なら、クリアしている分野なのです。それは、彼らの判断基準になりません。せいぜい、普通のオケマンや、音大生程度の話題です。世界的なヴァイオリン奏者に、この質問をしたら、笑うと思いますよ。



結論として、音楽に使う技術は、まったく昔の巨匠も劣っていない。

ただ、音楽と関係ない「技術」は今のほうが遥かに上でしょう。ですが、音楽を聴きたい聴き手にとって、そんなことは「どーでもいい」です。感じる音楽、心の音楽を奏でる人のみが、歴史に名を刻むのです。








質問にお答えします。

楽器を演奏するのに技術は必要です、また曲を演奏するにも技術は必要です。

ただ間違えてはいけないのが、音楽は技術だけではないと言うことです。

技術を突き抜けたところにあるのが芸術で、技術と芸術性は同等には語れません。

質問された方は技術面だけを捉えているようですが、それは質問自体に無理があると思われます。







フジコヘミングを味噌くそにけなす同じ人間が、往年の「巨匠」をほめそやすのは、確かにある種の権威主義を感じます。

パデレフスキーもコルトーも、技術的には今のフジコとせいぜいおなじじゃないかしら? 昔はあれでよかったのです。

技術だけ見れば、往年の巨匠もずいぶん見劣りがするのは疑いのないことです。

サンソン=フランソワのCDを聞くと、「もう一遍さらいなおして来い」と言いたくなると書いたあるピアニストは、それなりに正直です。

ハイフェッツもティボーも、未発表音源を目隠しテストで昔の録音であることが分からないようにして今の人に聞かせたら、どっかのアマチュアかと思うことでしょう。

声楽なんぞ、残念ながら聞くに堪えないw



llkm19791031さん。あなたのことは全く言及してませんよ。

クラシック通と称する人たちが本人が自称するほど「音楽のわかる耳」でよしあしを判断しているのでなく、

90%がた、演奏家の名前で判断していることについて言っているのです。







>現代の演奏家に比べたら往年の演奏家の方が技術は劣る様な事を言う人は結構居ますが、

>往年の演奏家は歌い回し(節回し)や、その為の技術が目立ち過ぎて、

>「現代の演奏家の方が技術が上」

>と言われているのかな?……と思う様になりした。(全員が全員とは思わないですが)



うーん、やっぱ、単純な話、現代の方がはるかに技術的な水準は高いよ。教育も何もかも整ってきてるしね。これは音楽だけに言える事ではなく、全ての分野で言えますよ。





>そこで質問したい事があります。

>クライスラー

>ハイフェッツ

>オイストラフ

>ティボー

>ミルシテイン

>……等の往年の演奏家の方々達と、



>ヴェンゲーロフ

>ハーン

>ムター

>レーピン

>サラチャン

>……等の現代の演奏家の方々達。

>どちらが上とかではなく、そんなに劣る技術を持っているのかと聞いてみたいのですが、皆さんはどう思われますか?



>宜しく御願いします。



んー、そこまで詳しく知らないけど、技術では現代。でも、コンサートに行くならハイフェッツかティボーwww







単純にテクニカルな問題でいえば、昔の演奏家はやはり劣っています。以前は

演奏困難といわれた楽曲も、現在、かなり若い人でも演奏できるようになってい

ますし、レパートリーも全般的に広がっています。教育水準や情報伝達の速度

が上がり、技術的な底上げがなされたことは間違いないでしょう。



器楽に限らず、声楽の分野でもかつてでは考えられないほど、質のいい歌手が

多く輩出されています。



では、現代の音楽家が昔の人たちと同様に評価されないのはなぜかというと、

その技術の使い道が誤っているからということになると思います。全体のレヴェ

ルが高くなり、レパートリーが拡大し、かつ、グローバルに音楽が消費されるよ

うになった結果、どういった技術が、どういったレパートリーに相応しいのかが

曖昧になり、それを的確に判別できる指導者もまた、少なくなってきたというこ

とです。



また、声楽などに関しては商業的な成功を追うあまり、人気歌手が自分にあっ

ていないレパートリーも歌うようになり、その繰り返しのなかで、正しい様式感が

失われてきたということになります。



昔よりも個性がなくなったとよく言われますが、私はどちらかといえば、個性を

追うあまりに、絶対に守らなければならない基本的な部分がなくなったのだと

見ています。その結果、個性を発揮するためのベースがない状態なのではな

いでしょうか。



独特の歌いまわし、そのための技術にリソースを使ったため、現代の演奏家よ

りも下手にきこえる部分があるという見方は、すこし無理があります。それでは、

かつての音楽家たちは恣意的に、個性のための個性を追っていたことになり、

ただの目立ちたがり屋になってしまいます。



ヴィルトゥオーゾと呼ばれる演奏家のなかには、そういうタイプもいたでしょうが、

挙がっているような演奏家は概ね、そうではなかったと思います。テクニカルな

面では劣りますが、絶対外してはいけない部分はしっかり押さえており、そのた

めに、自分なりに崩したり、自由にニュアンスを変えることができたという見方が

適切ではないかと考えます。







よく話題になる問題ですね。私も古今東西の巨匠といわれるバイオリニストと現代のバイオリニストをたくさん聴いてきましたが、結論としては、ある時からバイオリニストの役割が変わったのだと思います。



たぶん、分岐点はミルシティン以前と以後に分かれると思います。



●ミルシティン以前

バイオリニストとしての個性を重んじる時代。

各楽曲に自由に装飾(ポルタメントなども含む)を加えたり、テンポを自由に変更したり、楽曲に手を加えることが当たり前の時代。

技術的には、作曲能力、もしくは作曲家と同格の音楽能力があれば、オイストラフのような歴史に残る巨匠になります。ショスタコーヴィッチのバイオリン曲は彼の助言の効果も結構あります。そして一番大切なのは初演した楽曲をスタンダードにまで押し上げる力量です。シゲティの場合だと、バルトークとプロコフィエフに大いに貢献してますよね。



●ミルシティン以後

作曲家のかいたオリジナルを重んじる時代。いわゆる原典主義。

さらに進化してピリオド系バイオリニストになります。

技術的には、作曲能力はあまり重要でない。オリンピックの体操競技のような細かな採点による評価が重視される時代。

このスタイルで進化していった結果、現在のソリストは楽曲解釈の幅が狭まり、没個性的といわゆる所以ですね。

まあ、これとして良いのかもしれませんが、私的に不満なのは、初演した楽曲をスタンダードにまで押し上げる力量を持つバイオリニストがほとんどいないのです。クレメルは合格点、ムターはもう一つがんばってほしいところといった具合です(グバイドゥーリナをメジャーにできるかなあ。)。



こう考えると、求めている技術というのは、ミルシティン以前と以後では大きく異なるので、比較すること自体がナンセンスな気がします。ミルシティン以前の個性派バイオリニストを尊重する人の思いとか、意見はよくわかるのですが、現在はこういう時代なわけです。本来ならバイオリニストたるもの作曲能力をもつべきなのですが、発表の場が狭いためか積極的にやっている人はほとんどいません。バイオリンのコンサートにおいて新曲を期待する聴衆層が多くなってくると、また時代が移るかもしれません。

なので、聴衆の方が有名曲の名演ばかりを期待しすぎているのも問題です。バイオリニストはそのニーズにこたえているだけなのですから。







例えば私の敬愛する往年のヴァイオリニスト、シゲティは技術は甘いが演奏は上手いてなことを言われていますが、まったく違う。技術ってなんでしょ?指が早くまわることですか。そんなことなら昔の名人は吐いて捨てるほどいますよ。ムターやレーピンが歴史的名演を残すとは考えられません。問題は精神性とそれを表現するための技術なのです。昔の名人にハイフェッツを挙げられましたが私はハイフェッツを聴いたことがありませんからその点は回答できませんが。ことシゲティやバルトークに関して言えば、高い秩序や問題意識を持っていて、何でも得られる現代とは隔絶した表現性を持っていると言うことなのです。だから彼らは楽器をペンに持ち替えると素晴らしい文章が書けるのです。現代の薄っぺらな演奏家にそれが出来るでしょうか?ああ精神性。

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